さて、MIAAのホームページを久しぶりに拝読いたしました。 新たな報告を細かな部分まで詳細に書かれており、劣悪な環境が こどもたちに覆いかぶさっている現実がまざまざと目の前に浮かび、私が行ったときのことを思い出していました。年季の入った服で、はだしで、狭い暗い教室で、でも一生懸命に勉強する姿、あのまっすぐな眼差し。かけがえのない交流でした。 あの子達にとって、学校での勉強は、「生きていくためのもの」であると同時に、「教育のための教育」と言ってよいでしょう。教育こそが、カガチ村のこどもたちにとって未知の世界に出会える唯一の手段なのですね。知らなくても生きてはいける。でも、彼らは世界を知ることを欲しているように思います。これがある意味での純粋な教育であると思うのです。その活動を支援していくことは、こども達とカガチ村、大きく言えばネパールの、そして世界のためになることだと改めて実感しました。 現代は情報の渦巻く社会で、IT社会に突入した日本を含めた先進国では、寝ても起きても「受動的」に情報は受け取れます。しかし、能動的にこちらから何かを掴み取ろうとする努力を、我々は忘れているように思えます。 カガチ村の子供たちは、その曇りない眼で、少ない情報を、徹底的に学び取ろうとしているのでしょう。泥のついた書き込みの多い教科書・・・。不謹慎ですが、彼らのような教科書は、ある意味でうらやましいことです。私の奉職する学校でも、綺麗なままの教科書、あるいは手荒に扱ってぼろぼろになってしまった教科書、あるいは持ち主不明の教科書やプリントなどが目に付くことが現状です。悲しい話です。 いかにして学問が楽しく面白いものになるのか。どうすれば学ぼうとする姿勢が身につくのか。私もまだまだ暗中模索の状態です。しかし、カガチ村の人々の姿勢は、一つのヒントであると思います。そしてこのような姿勢をさらに継続し、次なるステップへとつなげるには、さらなる支援が必要でしょう。 またこのような報告を楽しみにしております。 MIAAの皆様のこれからのますますのご活躍と、カガチ村の将来がさらに発展することを祈念いたしまして、失礼いたします。 |
| 2007年10月31日 ネパールカガチ村体験隊 鈴木 郁子 IKUKO SUZUKI MIAA事務局員:会社員 |
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| 10月31日、成田からバンコクを経由し、翌日カトマンズに降り立った。あいにく、ヒマラヤには雲がかかっていたが、日差しは強く、汗ばむほどである。バンコクからの機内は満席にも関わらず、空港内の大型航空機は、私たちが乗ってきた機材以外にはない。ターミナルの中は、ここが国際空港か?と、目を疑うほど小さく、暗く、古びている。職員の数も少ないので、入国ゲートは長蛇の列である。空港を出ると、スクンダのメンバーが出迎えてくれた。
空港を出て、路上に出ると、驚きの連続である。なにしろ、走行する車のほとんどが、走っているのが不思議なほど古くさび付いた車体ばかりで、中には、フロントガラスがなくても平気で走っている。ガラスの代わりに、ビニールをガムテープ貼っている車まである。バスのボンネットの上には、沢山の人が座ったまま走っていて、非常に危険だ。道幅は、国道といえども、非常に狭く、でこぼこしている。路肩は土なので、土埃が舞い上がる。その路肩には、ごみが散乱している。何にしても、秩序が存在するのか?不思議である。何度か、国連の車両を目にした。それだけ、支援の必要な国であることを実感した。 牛を敬う国ということもあり、野放しの牛が路上を行き交う。車が牛をよけて走っている状況である。牛を食することはないので、もちろん、マクドナルドはない。といっても、外資の外食産業は何もなく、コンビニも見当たらない。 道路沿いには、個人商店や露店のようなものは多数あるが、工場のようなものや大きな企業は見つけることができない。ひなたぼっこをしている大人が多く見受けられた。
ホテルまでの途中、丘の上で車を止めた。すると、学校帰りの子供が、英語で話しかけてきた。聞けば、9歳の少女であった。子供の数がどんどん増えてくる。ネパールは、早い段階から英語教育に熱心で、義務教育後は会話ができるレベルであるという。わが国の子供達のレベルからすれば羨ましい限りであるが、英語が話せなければ、仕事に就けないから、母国語より力を入れるのだという。しかし、優秀な人物はネパールで職に就くことなく、海外で活躍し富を得るものも少なくないらしい。それだけ、この国には働き口もなく、賃金も安いということである。「日本人は、日本語だけで就職できるのだからいいですよ」と、言われたのが印象的だった。ちなみに、就職の人気度は、公務員や銀行員より軍人。欧米の軍隊に高額で雇われ、厳しい任務にあたり、死んでいく者も多いという。貧しさゆえの何とも悲しい現実である。 ネパール初日、ナガルコットに宿泊するも、そこから見えるという見事なヒマラヤに出会うことは出来なかった。世界的な異常気象は、ネパールでも例外ではなく、ここ2年ほど雨が以前より降らないので、雲が切れずに山がよく見えないことが多いらしい。 ホテルでは、夜6時頃から1時間ほど節電のための停電があり、ろうそく1本で過ごした。何とも不気味である。停電といえば、その後もカトマンズの銀座?といわれるニューロードでも、一時的に2回ほど体験することになる。 ネパール4日目、カトマンズの中心部を経てカガチ村に向かう。中心部のタメル地区は、人が多く行き交い、商店や飲食業が軒を連ねる。ネパールのお土産などを売る店も多い。 村へ行くには、四駆のワゴン車で山道を登り、谷に向かって下る。道路は途中までアスファルト化していたので、思ったより苦痛はなく、窓から見る景色は、何とものどかで、この先が楽観的にさえ思えてくる。MIAAが発足した頃は、アスファルトはなく、砂利道やぬかるみをバイクで通ったというから大変な苦労であったと思う。砂利道といい、その素朴さといい、生えている樹木の種類や段々畑を除けば、三十数年前の幼い頃に見た、七ヶ宿へ向かう風景に似ている。砂利道やカーブでも、オートバイの運転手は携帯電話を片手に走っているのだから、信じられない。途中大きなぬかるみに出くわしたが、ワゴン車は難なく走っていくから驚きである。村まで、市内から40分ほどで到着した。その程度の時間で、カトマンズ市民も驚く「忘れられた村」に着くのだから、その先が興味深い。 車から降りて、まず診療所に向かった。途中、3歳位の幼児や赤ちゃんを抱いたお母さんを見かける。その子たちは皆、ボロ ボロなTシャツの下の下半身は、丸出しである。下腹は膨れ、膿鼻をたらしている。後で聞くと、貧しくておむつはもちろんないらしい。おそらく、排泄がうまくできない乳幼児は、下着をつけさせて、後で洗う手間などを考えれば、そのままの方が効率的ということだろうか。それ以前に下着やズボンを買う余裕もないのは確かである。これでは、抵抗力のない乳幼児が、風邪をひいたり、下痢をするのは間違いない。
診療所では、看護師を含め3人のスタッフが迎えてくれ、村の様子について質問を試みた。私としては、MIAAのホームページ作成という仕事柄、村についていろいろと会長から聞いてはいたが、以前から周産期については是非聞いてみたいと思っていた。カガチ村の妊婦は、出産ぎりぎりまで農作業に携わるが、そのまま畑のすみで生んでしまうこともよくあるという。産湯につかわせることもなく、産婦自身がふいて赤ちゃんに油を塗るのだという。栄養障害により、母乳がでるのか不思議であったが、稀にヤギの乳を飲ませることはあっても、何とか朝晩2回、母乳を飲ませてから畑に出るのだという。昼間は泣いても、そのまま或いは祖母が自身の母乳を飲ませることがあるという。祖母といえども、出産してそれほど経過していない女性もまれではなく、その場合、孫に母乳を与えることも可能らしい。乳幼児の死亡率は高く、原因は栄養失調による下痢や風邪が多いという。数年前まで、下痢の際の水分補給はタブーというような、迷信があり、致死につながったが、診療所ができてからは、ワークショップや保健師の巡回指導により随分改善されてきているという。診療所は、病気の治療だけではなく、病気予防や家族計画の指導にも随分大きな役割を果たしているようである。 診療所をでて、学校に向かった。幅50cmもないような、道とは言いがたい急勾配を登る。大雨でも降れば、流されてしまいそうな土の上に、石もゴロゴロしていて、非常に危険である。そんな場所に一世帯15人も住むという、土壁でできた粗末な家が点在する。時間的に老婆と乳幼児が日向ぼっこをしている様子で、幼児は相変わらずお尻丸出しで、ボロボロな服を着ている。お菓子をあげても、まるで無表情である。
帰り際に、希望して9歳の少女に教科書を見せてもらった。ぼろぼろのリュックサックに英語だけで2冊とネワール語、算数、社会などの教科書が入っている。教科書は全てボロボロで、ホチキスで補修してある。めくる度に、土埃でザラザラしている。英語の教科書は、日本の中学2年レベルまでも含まれ、英語で質問に答えてくれる。ネパールの収穫作物分布図?の内容がノートに記されていた。ネパールの地図上でどの辺に住んでいるのかも理解しているようだ。練習問題も解いてあり、ノートもとっていて、暗い中でも熱心に勉強しているのがわかる。 この村はまだまだ発展途上ではあるが、この子どもたちが大人になる頃には、また随分違ってくるのではないだろうか?彼らが学ぼうとする姿勢があれば、より未来は明るいと確信した。それでも、まだまだ支援が必要であることに間違いないのは言うまでもない。 ![]() ネパール最後の晩、スクンダのメンバーがパーティーを開いてくれた。私は、アショク夫人にネパールの民族衣装とブレスレットをプレゼントされ、着せてもらった。陽気なメンバー達と親切なアショク氏一家と共に、片言ででも一人一人と言葉を交わし、懇親を深めることができ、非常に有意義な時間であった。その歓迎ぶりに、改めてMIAAのネパールへの貢献を認識した。 話の中で、これからネパールがよくなる為には、国が安定すること、公務員などの利権や賄賂をなくすこと、国民の美化意識向上などがあるという。後に知ることとなったが、折りしもこの晩、ネパールの王室廃止がほぼ決まり、19日の議会でネパールの選挙日程が決まることとなったようだ。とにかく、早急に武力を鎮圧し、国が安定し、近い将来ネパールが貧しさから脱却する日が来ることを願ってやまない。
帰国後、この文を読み返し、自分の貴重な体験と重ね合わせ、再認識した。 私は64/100の中の1人であることに幸福を感じなければならない。だからといって、「自分自身何ができるか?」と問われたら、情けない話だが答えに困る。ただ、まずは、事実を伝えることから始めたいと思う。 |
今回、鈴木信会長と世界的に活動している組織のアジア本部、Disabled Peoples International Asia Pacific Region(DPI)を訪問した。DPIの会長は女性の方で本人も傷害を持っているようで車椅子に乗っていた。名前はSaowalak Thngkung(サワラク会長・車椅子に乗っている女性)だった。 次にナンスクールという学校へ出向いた。生徒数1000名を超える大きな学校で、校長先生は女性の先生だった。 車椅子の修理は、ナンスクールで行われており、場所もないため学校の軒下に部材をおいているが、洪水の時は、すべて水に濡れてしまうといっていた。 タイの学校を訪問したのは始めてなので、すべてが新鮮に感じられた。 学校の先生方には大歓迎され、川辺のレストランで夕食をご馳走になった。非常に明るい先生方で、デザートまでご馳走になってしまった。 このナンスクールは、中学校1年生〜中学校6年生までの、6学年が学ぶ学校で日本でいう高校の役割もすると教えてもらった。 ネパール事業報告
カガチ村へ向かう途中では、ガソリンスタンドへ並ぶ車で大渋滞で、なかなか進めなかった。 前回の渡航と比較すると、村民の服装もよくなったような感じがするし、全体的に生活水準も上がったような感じに受け止められた。 ワークショップの開催後、一緒に大人への給食を配布した。 機材も今回の支援でかなり充実したようで、いい診療所になったと感じた。 学校へ訪問して感じたことは、MIAAのDVDなどで見た時よりもかなり生徒数が増えたような感じで教室にたくさんの生徒がいた。 |
| 2006年10月3日 ネパールカガチ村体験隊 渡辺和幸 KAZUYUKI WATANABE 一般参加:建築業 |
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はじめまして今回カガチ村(ネパール)初訪問の渡部です。出発前のレクチャーで、かなり脅かされていた私は、現地へ到着するまではアフリカの荒野のイメージで覚悟を決めていましたが、カトマンズ空港へ降り立った時は風景を見てまずは一安心しました。
ライオンズスクンダの方のお迎えでホテルへ出発したのは良かったのですが、交通渋滞というか、車にバイク、人、牛がクラクションの中よく喧嘩にもならず進めるものだと感心した半面、かなりストレスがたまりました。その後メンバーの方とホテルのロビーで打合せと懇談。この時、日頃気にしたことがなかった言葉の壁!皆さん日本語が上手で、その時は少し勉強しようと思いました(過去形)。
さて、翌日好天の中カガチ村に出発です!気候もよく思った以上に過ごしやすい気候で、ドライブ気分、しかし日本で言えば軽ワゴンに約十人乗車で山を登れるのか少し不安?しかし途中での風景は眺めもよく、30年くらい前の、私の福島の田舎へ帰省するときに少し似た感じで、なにか懐かしい気分になりました。車を降りて診療所へ。しかしその道は結構きつい坂道で足場もかなりわるく、お年寄りや体の不自由な人はどのようにして移動するのか不思議でした。途中には補助で建設した校舎?が有りましたが、お金が不足して建設途中のものも有りました。どうせなら完成できるぐらいの計画的な補助をすれば良いのに、ただお金だけを預けるのも無責任なやり方で、結局素人の村人が見様見まねで型枠を組んで棒で押さえている無用の長物になってしまっているのを見るとすごくもったいない気がしてなりません。今回は残念ながら同行できなかった建築の専門である安信工業の轟木社長がいれば、良い提案が出来たのではと、残念でした。轟木社長の夢である学校建築の夢を是非ここで活かせるのではないでしょうか。
はじめてのネパールで、診療所での給食配布は、考える間もなくあっというまに、終わってしまいましたが、非常によき経験になりました。 なかなか国際貢献ということは難しいかと感じましたが、今後、できることは協力して行きたいと思います。 |
村に着くとダサイン祭で使かわれたブランコのための大きな竹のやぐらが、私たちを迎えてくれた。急な坂道を徒歩でのぼり支援で建てられた診療所へ向かう。途中にある石を積み、赤土で塗り上げた家々がこの村の貧しさを物語っていた。電気もなく、水道も一日に数時間だけしか水がでないとのことであった。 到着すると地元の小学生の歓迎で揉みクシャにされた。早速ワークショップが開始され医師からこの貧しい村はでは基本的な公衆衛生が必要だということ、またそれを村人に理解してもらうことの大切さを教わった。医師より村人へのレクチャー、公衆衛生に関する映画の上映、学校給食、簡単な日本語の授業など多くが行われていった。私の役目はこれらを映像に記録することである。美しい自然とは対照的に、ファインダー越しに見る斜面に暮らす人達は、やはり貧しく淋しげであった。ぼんやり遠くを見つづける老人。重たそうな荷物を、帯の様なものを使い頭で担ぐ女たちがゆっくり登っていく。 ところが学校に行き子供たちを撮影すると、後ろには子供たちが常に集まってき交代でモニターを覗き込みはしゃいでいる。おそらく「何々ちゃんが映てるぞ」とでも話しているのだろう。こうしたところは日本の子供たちと何ら変わらない。吸い込まれそうな子供たちの目にきれいな青空が映っている。底抜けに明るく跳ね回る彼等を見ていると今よりも、明日への希望を何故か期待してしまう。 これも村を支援しつづけている宮城国際支援の会と、現地ネパール・ライオンズクラブ・カトマンドゥ ・スクンダの皆さんの地道な努力があればこそなのだと痛感させられた。人間が人間らしく生きるためには平坦な道のりだけではない。今回私が見てきたことが微弱ながらもより多くの人に伝わり皆さんの一助になれば幸いである |
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| 2005年11月7日 ネパールカガチ村体験隊 松本匡平 MASAHIRA MATSUMOTO 特別スタッフ:東北大教育学部教育社会学専攻 |
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| カトマンズから車で1時間弱の場所に、カガチ村はある。ネパールの地図を購入して探したが見つからない。地図にも載っていないその村は、だんだん畑が広がり、山肌に家が点在するところで、米の収穫も終え、冬に向けて小麦を植えようとしている、そんな場所であった。青空が深く広がる場所で、第一印象は、綺麗だなという、きわめて日本人的な発想から始まった。
まず村の診療所に向かったのだが、その診療所の手前の坂では、小学校の子ども達が花で作ってくれた輪を用意してくれていて、我々が通るたびに首にかけてくれた。この大歓迎振りに、私は、この村を今まで支援してきた人々に改めて感動と敬意の念を覚えた。子ども達はどの子も純粋な目をしており、当初よりも楽観的な考えにさえなるほどであった。 しかし、診療所にて、まずドクターの話を聞いたり、映画の上映の準備中に、周りの村人らの話を聞くと、まだまだ支援の手は必要で、成果は上がっているものの、もっと支援を続けなければ、この子ども達や村人がよりよい生活をするにはまだ道のりが険しいものであることを再確認した。その一例としていいかわからないが、体内の色素を生まれながらに生成できないと思われる男の子がいたことを報告したい。おそらく、太陽の光があるところではまぶし過ぎて周りが見えないばかりか、視力もあまりない様子であった。ドクターと話をして、ネパールの支援団体ライオンズクラブ・スクンダのラマンさんとも話をし、今度メガネと帽子を持ってきてくれると言うことになった。当たり前なのだが、どこにでも障害を持ったり先天的な病気を患ったりする子ども達がいるのだ。それをまざまざと見せ付けられた。知識がないことに罪はない。それを見て見ないふりをすることにこそ問題があると、私は思った。 診療所を後にして、次に学校に向かった。そこで、授業、「簡単な日本語講座」を行った。挨拶の基本である、「こんにちは」「ありがとう」を、ネワール語・英語・日本語の順に黒板に書き、声に出して読んで、ノートに書き付けるという、シンプルなスタイルのものであった。通訳をしてくれたアショクさんとともに進行したが、子ども達の目の輝きが今でも脳から離れない。身を乗り出さんばかりに話を聞いていた姿を見て、どの子にも、学ぼうとする好奇心があるのだということを改めて実感し、この姿勢を大切にしていってほしいと切に思った。ただ、教室内が暗いことと、幾分教室が狭いことが気にかかった。電気や建物の問題はそう簡単には解決できそうもない。でもいつか、この子ども達がより勉強しやすい状態に置かれることを望んでいる。もう一つ印象的だったのは、生徒の中に自分の弟であろう赤ん坊を背負って教室で勉強していた生徒の存在である。どういう事情であるかはわからないが、子どもも労働力の一つとして考えられている一面であると同時に、それでも学校で学びたいという子どもの強い思いの一面でもあるのだろう。学習することの権利は何人も侵されないというどこかの条約の崇高さは認めるが、このような小さな具体例を見ると、理想と現実をいかに近づけるかがものすごく大変であると言うことを実感した。
もう一軒の突撃レポートも終え、ごみ処理場を見学した後、帰路につく。このごみ処理場のおかげで、村の交通の便がよくなったことにどこか腑に落ちないものを感じたが、総じて考えれば良かったのだろう。先ほどの小学校の生徒が家に帰るのか、車ですれ違うと、「コンニチワ!」「アリガト!」と、覚えたての日本語で挨拶してくれるではないか!こんなことでは何の解決にもならないのかもしれないが、それでも、感動と、今後継続して支援していく道とは何かを考える元を、私に与えてくれた。思わず私も叫んでいた。「ありがとう!」と。 もっともっと様々な支援をしていくこと、それも村人達が独自に何かを成し遂げていけるようなものにするには、まだ果てしない道のりなのかもしれない。しかし、今回の映画の上映や、診療所にレントゲン検査機を置くことも大切な一歩である。子ども達の中には、小学校・中学校・高校と進学したいと願う子どももいるそうだ。それらがどのように実現可能か。そのために村人の力がどこまで伸びるのか。問題は山積しているが、今回のカガチ村訪問で、少しでもその足がかりがあったと思えたのは、着実に支援が実を結んでいることの表れであろう。これからもカガチ村が発展していくことを願ってやまない。 |
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| 2005年11月6日 ネパールカガチ村体験隊 池田亜衣 AI IKEDA 一般参加:大学院生 |
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| カトマンズからカガチ村へは、これでも良くなった、と言われる山道を進みます。緑の中に小さいながら、ぱっと目を引く赤いサリーが見え隠れしていました。カガチ村は斜面に作られており、ちょっと移動するだけでトレッキングになります。村ではまず、小学校に入る前の子どもたちを対象にお菓子を配りました。子どもはもちろん大人までそのお菓子を食べていたのですが、気がつくと袋の中に入っていた乾燥剤まで食べてしまいました。そのくらい貧しく、そして時代から取り残されてしまった村なのだろうと思いました。 診療所にはたくさんの村の人たちが集まっていました。医師はその日、石鹸についてお話をしているようでした。お話のあと、私は鈴木さんと一緒に石鹸を渡すお手伝いをさせていただきました。石鹸を受け取るときの村の人々の表情は一様でした。照れている、というような表現が適当かはわかりませんが 、私たちと目を合わせることなく、はにかむように笑って受け取られていました。なんだか妙に表情の硬い人もいます。彼らは石鹸に慣れる前に私たちに慣れていないのではないでしょうか。そうした中で石鹸について、こちらの思いはきちんと伝わっているだろうか、ふいに不安になりました。しかし、給食となると話は別です。みなさん張り切って、パン、りんご、ゆで卵を受け取っていました。まずは食べるということ、多くのカガチ村の人々の価値観はそこにあるようでした。だれかを支援するということは本当に難しいことです。ましてや文化習慣の異なる人々を支援するということは、支援する側のものさしだけで図っては良好な関係性を構築できません。どんなにか、より良く生きることを伝えようとしても、相手を尊重した上での活動でなければうまく伝えることは出来ないであろうと思います。鈴木さんを始めとして、宮城国際支援の会、ネパールライオンズのメンバーはそのことを実感されているのだろうと思います。道路が良くなった、村の斜面が雨で崩れないように石が積まれている、牛を飼うようになっている、数年前よりも私たちの言うことに耳を貸してくれる…。何か少しでも、小さな芽が出てくれればいい、切実で根気強く、優しいまなざしでカガチ村を見つめているように思いました。村からの帰り道、これでも良くなったらしい曲がりくねったでこぼこ道を下りながら、私自身のものさしはどうなっているのか、問われているように感じていました。 |
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| 2005年9月6日 ネパールカガチ村体験隊 小沢 恵 MEGUMI OZAWA 一般参加:タイ在住実業家 |
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| カトマンズの街並みは、アジアと違った景色でした。シンプルで、贅沢なもののない 町並みでした。宮城国際支援の会(鈴木信氏)の活動は、実際の村の人たちの生活 を身近にして、村を向上するという目的の上、小さなことから1つ1つ積み重ねて 活動していることを感じました。そしてその裏の苦労とネパールの方たちが認めてい る実績、本当に凡人にはできないすごさを感じました。カガチ村へ行って、実際に診療 所で村民を見て何を感じたかというと、皆実際の年齢より老けて見えたという事です。 私が気になって見えた状況は、小さな子供でした。 自分に2歳前の子供がいるので、そのイメージで同じくらいかなと創造して 年齢を聞くと3.4歳というのには驚きました。 生ることだけの生活というものを感じました。カガチ村の小学校に行った際感じた ことは、村の人たちに比べて学校の子供達はとても元気があったので驚きました。 このパワーを育てていきたいと思いました。 今回の体験で、自分の生活、生まれ育った環境がいかに恵まれていて幸せだということを感じました。生きることが楽しめて、おいしいものが食べられて、それがどんなに恵まれていることか現代人に伝えてあげたいです。 物がありふれすぎている今の生活から生きる最低限の生活をみたことが一番心に感じています。その人たちに触れたことも含めて現在の生活の裕福さを見つめなおせたと思います。 こんなすばらしい体験をさせていただけて本当にありがとうございました。 何か仕事でもネパールとつなげていくことができればと考えています。 もっともっとがんばって行かなければと思いました。これからもよろしくお願いします。 |